どうも、となりです。
先日Yahoo!ニュースで「宝くじの未換金」に関する記事を読んだのですが──正直、本文よりも気になったのはコメント欄でした。
例えば、こんな声が並んでいました:
- 「高額当選者は最初から決まってる」
- 「当選したって言ってる人は内部の人間」
- 「ネット宝くじなんて絶対当たらない」
なるほど…そうきたか。
確かに、連敗が続けば誰だって「これ本当に当たりあるの?」って思いたくもなります。
「買い続けてるのに全然かすらない」とか「友人・知人で当たった人を聞いたことがない」とか、その気持ちはわかります。
でもそれが、“陰謀論”に飛躍するかどうかは別問題。
そもそも「当たりづらさ=不正」ではない
ロト6は「43個の中から6個を選ぶ」くじで、その1等当せん確率は約609万分の1。ロト7にいたっては約1,000万分の1とも言われています。
もちろん、抽せん機やロジックに100%の透明性があるとは言いません。
でも、全国で何千人・何万人と買っていれば、「当たる人がいる」のもまた事実。
自分が当たらない=他人も当たっていない、という思い込みは危険です。 それこそ、思考停止の始まりだと僕は思っています。
不信の根っこには「納得感の欠如」がある
たぶん、陰謀論にハマってしまう人って、「納得できる理由」がない状態に耐えられないんだと思うんです。
例えば──
- なぜこの数字が当たったのか?
- なぜ自分は外れ続けるのか?
それを説明できる材料が何もなければ、「仕組みが怪しい」と思いたくなるのも無理はない。
でも、そこで止まるのではなく、「じゃあ傾向は?」「パターンは?」と、もう一歩踏み込めば、見えてくることもある。
ぼくがやっている“ロトの予想”は、まさにその一歩の積み重ねなんです。
本当に操作されていたら──
もし仮に、宝くじがすべて操作されているとしたら。
ぼくがこれまで積み重ねてきた分析データ、全部意味ないです。
連番や下一桁のかぶりを数えても、奇数偶数を丁寧に分類しても、標準偏差を計算しても、全部ムダ。
でも、ぼくはその“ムダかもしれないこと”を楽しんでいます。
なぜなら、そこには「納得できるプロセス」があるから。
予想が当たったときも外れたときも、「どうしてそうなったのか?」を考える楽しみがある。
それは陰謀論では得られない“面白さ”だと思っています。
最後に
コメント欄を見ていると、宝くじに限らず「当たった人がいる=おかしい」、あるいは「当たらない自分がいる=おかしい」と思い込み、その原因を外に求める人が少なくないように感じました。
でも、たとえ自分に当たらなくても、「どうすれば近づけるか?」を考える方が健全だし、何より楽しい。
当たらない理由を“外側”に求めるのは簡単だけど、そこに「納得感」はありません。
データや傾向を見て、「なるほど、そうきたか!」と一喜一憂する時間──それこそが、ぼくにとっての“ロトの楽しさ”です。
だからぼくは、今日も過去の膨大な当せんデータを見つめながら、
どこかに潜む“流れ”を探しています。
自分の中で、ちゃんと納得できるロトのために。